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Archive for 2011年1月

amazon.co.jp のStephen Kingの小説の読者評価ランキングで上から二番目に高かった小説がこの”The Shining”だった。多大な期待を持って読み始めた。読後の感想は「怖かった」と、「英語が難しかった」のふたこと。恐怖はKingの小説の真骨頂。コロラド州の人里はなれた山間地にある格式ある古いホテルに、豪雪で閉鎖される冬季の管理人としてヴァーモント州から住み込んだ親子三人を、呪われたホテルが様々な亡霊たちを使って殺そうとする。最後の最後まで身の毛が弥立つシーンの連続で、何度かページをめくるのを躊躇させられたぐらいだった。英語に関しては、一般的にStephen Kingの小説を原文で読むのは難しいが、特にこの小説は読みづらかった。ホテルの中の様々な施設で奇妙な現象が次々と起こるのであるが、知らない単語が多かったし、King独特の動作の記述がやはり出てきて、正直半分ぐらいしか何が起こっているかを正確に理解できなかった。ボリューム満載な小説なので毎回立ち止まって入念に調査していると小説の流れが切れるので、不明な点をかまわずに読み進めてしまった。このような事情があり、私の読後の評価は、amazon.co.jpに寄せられていた高評価ほど高くない。私一押しのKingの代表作”The Dead Zone”よりは絶対に劣るし、英語的には”Misery”が同様に難解だったが、この小説は”Misery”ほどの質の高さはなかったと思った。”The Dark Half”とはどうだろう。表面的には全く異なる題材を扱う小説だが、”The Dark Half”と”The Shining”は共通点が多いと私は感じた。モンスターである主人公の双子の弟が盗難車でニューイングランド、ニューヨークを移動する前者の方が、雪で閉じ込められたコロラドのホテルの中で親子三人と亡霊達だけで展開される後者よりも、退屈しなかったことは確かだ。

収穫は、題材は異なってもStephen Kingの小説に出てくるキャラクターには定番があるなと、この小説で確信したことだ。大学か高校で教鞭をとりながら小説を書いている30-40代のニューイングランドに住む男性(King自身の投影)。足が綺麗で性的な魅力溢れる妻(Kingの最愛の妻Tabbyの投影)、そして命を厭わず主人公家族を助力する重用な脇役男性(小説によって大きく異なる。The Shiningでは黒人コック)。”The Shining”では、これらの定番に加えて、若夫婦の6歳の息子が主人公の位置をしめた。Shiningとは、霊感によって、近未来に起こる不幸を予期できる能力。主人公の息子がShiningを持っており、それゆえに古いホテルに住み着いた亡霊や奇怪な現象がどんどん見えてしまい、恐怖に怯える。しかも霊感が強いことをホテル(ホテル自体が化物)が脅威に感じ、ホテルの方が両親だけでなく、特にこの息子を抹殺しなければならないと感じていた。冬が深まり雪で完全に外界から隔離されてしまうと、亡霊たちが夜通しでパーティーを開いたり好き放題を始めた。父親はホテルに魂を乗っ取られ、妻と息子の殺害を試みる。そんな恐ろしい話なのである。最後はなんとかハッピーエンドなのであるが、本当に紙一重の差だった。この小説を読んでしまうと、怖がりの人は古いホテルを今後敬遠してしまうかもしれない。
The Shining
The Shining

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20日(木)の日経夕刊を読んでいると、カストラートという聞きなれない職業の人達を紹介する記事に出会した。文化面に連載している音楽評論家の林田直樹氏によると、17-18世紀までの約200年間、主としてイタリアで輩出された欧州音楽界で絶大な人気を誇った去勢男性歌手のことだという。引用すると、「少しでも息子に音楽の才能があれば、ひともうけしようという父親の同意のもと(多くの場合家は貧しかった)、幼い少年を去勢し、変声期が来るのを防いで、子供と女性の中間的な声をつくり出すのである」と親のエゴによるかなりひどい話なのである。去勢と聞いて私は「ヌキ」と「宮刑」の二つの事を思い浮かべた。前者のヌキとは高校生時代私が食肉の卸屋さんでアルバイトをしていた時に知った言葉である。冷蔵庫の中にかけてあった沢山の牛枝肉の中に時々マジックでヌキと書かれたものがあった。これを不思議に思って職人さんに質問したら、子供の時に去勢された雄牛のことと教えてくれた。理由は玉を抜いておくと、雄牛であっても女性的肉体に育ち肉が柔らかくなるからとついでに話してくれた。いくら肉を柔らかくするためとはいえ、可哀想だなと同情した。後者の宮刑は高校の歴史の授業である。クラス全員男子だったものだから、中国の史学者司馬遷が出てきたところで、「実は司馬遷は、皇帝を逆鱗させたために宮刑という罰則を受けて去勢されていた。そのため声が女性のように甲高かった。」と含み笑いをしながら歴史の先生は教えてくれた。この時は人間である。どんなに痛かったことだろうと、私は同情よりもむしろ恐怖を感じた。

そして昨日日経の記事により、実は人間に対する去勢は古代中国だけでなく、なんと近代の欧州でさえ行われていたと知り、驚くとともに怒りを感じたのである。ゲイ男性が性転換手術を受けて玉を抜くのはいい、自分の意志だから。しかし、何も判断できない本人が幼いうちに、生活苦だといって男子の本分である玉を除去してしまうとはなんたる暴挙だろうか。カストラート達は、世の男女が恋愛を謳歌す最中、多くが歌手として成功し、中には宮廷で重用された人さえいたとはいえ、恋愛・セックスと無縁で生きなければならなかったのだ。それはとても虚しいことで、時には玉さえあればと父親をひどく恨んだかもしれない。林田氏の連載記事では成功話しかなかったが、きっと精神疾患に陥ったカストラート達は少なくなかったと思う。

現代の日本では、幸いにも我々は去勢されることはない(当たり前か)。男子としてはとても幸せな状態である。にも拘らず全く恋愛していない私のような男は、自ら心の去勢をしたようなものかもしれない。カストラートとか司馬遷、はたまた「ヌキ」雄牛のことを思うと、我々男性はもっと積極的に恋愛をしなければならないのかもしれない。さもなければ、宝(玉)の持ち腐れになっていまう。

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先週の土曜日(1月8日)米国アリゾナ州のツーソンのスーパーマーケットでの単独犯による無差別銃撃事件(ターゲットは民主党下院議員のGabrielle Gilffordsであったが)、下院議員は重体、9歳の女児を含む6名が死亡した。アメリカのメディアはこぞって『ツーソンの悲劇』として特別番組、特別報道体制を組み、Gilffords議員の病状、6名の死者のプロファイル、そしてアメリカのメディアお得意の悲劇の中で活躍したヒーロー達の話を伝えた。そして1月12日にアリゾナ大学でのオバマ大統領の追悼スピーチは、それはそれは心打たれるものであった。Gilffords議員が数時間前に狙撃後初めて瞳を開いた劇的なニュースを伝え、狙撃犯の過激な思想の影にある極右、超保守層を批判するのではなく、死亡した9歳の少女Christina Greenを引き合いに出し、「心に思い浮かべてください。民主主義というものを知り、市民としての責任ということをやっとで理解し始めた9歳の女の子のことを。我々は彼女が希望していたことに応えたければならない。我々の民主主義は彼女が想像していたぐらい素晴らしいものでなければならない。この国が子供達の希望に応えるために、我々全員がなせることは何でもしなければならない。」という、アメリカの保守からリベラルまで抵抗なく受け入れられるキー・メッセージを、オバマらしい素晴らしい弁舌で伝えた。スピーチの時、オバマ大統領は何人かのヒーロー達(狙撃直後Gilffords議員に覚えたての応急処置をした20歳の議員ボランティアの青年、狙撃犯に飛びかかった老齢の退役軍人)を取り上げ、会場は拍手喝采となった。 狙撃現場やGilffords議員が入院しているアリゾナ大学病院には追悼、回復を願う市民から花束やメッセージが次々よ捧げられている。ツーソンの街中の駐車場や公園に木々に追悼のために手作りの風鈴(wind chimes)を掲げるボランティア達がいる。ニュース番組のあるアンカーに言わされれば、「アメリカは悲しみに打ちひしがれている。」と言う。

しかし、この事件の真因(そして、コロラド州コッロンバンの高校での銃撃、バージニア工科大学での銃撃、等々の)である危険な人物が殺傷力の強い銃を保有することについては、規制を強化する見込みは全く無いという。このブログで翻訳を載せたニューヨークタイムズの記事では、銃保有推進論達は銃保有を保証する合衆国憲法修正第二条を盾に、今回の事件で特に問題になった大容量弾倉への制限に声高に反対を表明している。銃規制の強化を推進する側は、11月の改選で下院が共和党のコントロール下になり、上院でも両党が拮抗したために、腰が引けているようだ。それを見て安心したのか米国最最強のロビー力を誇る全米ライフル協会(NRA)は敢えて沈黙を保っているぐらいだ。

銃撃悲劇が起こるたびに、皆で集まり悲しみ励ましあい、いろいろなボランティア運動を行うのはいい。同様に、どこから探してくるのかヒーローを仕立てて賞賛するのもいい。それはアメリカ文化の一つなのだから。しかし、肝心の銃規制に背をむけ続けているようでは、このような悲劇は必ず繰り返されるはずだ。第三者の目から見れば明白である。それが憲法で保証されているとか、銃所有はアメリカの文化(確かに田舎にいけば警察官が少ないので自衛が必要だが)とか言って。何もしないアメリカ人。これ(銃撃事件で毎回奪われる多くの命)は、アメリカ文化を維持するための社会コストなのだろうか。連日TVで報道されるツーソンの悲劇で悲しむアメリカ人、ボランティアのアメリカ人、ヒーロー達を見るにつけ、むしろ空々しく感じるのは私だけであろうか。

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1月7日から中東カタールのドーハーで始まったサッカーのアジア杯、楽しい。TVを保有していない私がこの大会をリアルタイムで楽しむ方法は、ツイッターの#daihyoタグに現れている怒涛の書き込みと、ハッキングサイトからのストリーム中継である。後者に関しては日本語の放送は一つもなく、試合によって、英語だったり、韓国語だったり、あそらくアラビックであったりと解説内容は理解が出来ない。更に所詮一般ユーザーがケーブルTVからハッキングしているようなので、映像・音声ともに途切れ途切れで不安定である。従って、試合の手がかりは#daihyoタグに現れる一般ユーザーの書き込みなのである。意外にもこれが分かりやすい。感情的なものがもちろん多いが、的確に試合の流れを伝えてくれる書き込みも多いのだ。ツイッターの140字の制限の中、しかも#daihyoに前後のスペースを含め9文字を取られながら、的確に記述できるのは大したものである(但し、筆者は英語のツイッターをよく見ているが、同じ文字数制限下では日本語の方が圧倒的に多くの情報量を英語に比べて伝えられる)。#daihyoタグの書き込みで、もう一点強く感じるのは書き込んでいる人達の成熟度である。Yahoo!のサッカー日本代表の掲示板等で見られるヒステリックに、監督、選手、監督を糾弾したり、「チョン」「在日帰れ」等の在日韓国朝鮮人に向けての吐き気をもよおすような汚く根拠のない人権侵害的書き込みもない。素直に、高い視点にたってアジア杯アッカーを楽しんでいる人達が多いのだ。例えば、先日の日本代表対シリア代表戦での川島の退場・PKの微妙な判定に関しての反応は、従来のようなヒステリックに誤審を激しく糾弾するよりも、むしろ「これがアジア。何があるか分からない」とか「ようやくアジア杯らしくなってきた」というよなポジティブにアジア杯を楽しもうという雰囲気が強かった。他国戦についても関心が高く、豪州、韓国代表の動向を伝えたり、日本との長年非常に緊張関係にある北朝鮮代表の選手(もちろんJリーグに縁がある在日選手である)に対する応援の書き込みもある。このような#daihyoタグに現れるファンの反応にはアジアのサッカーの特質を良く理解した成熟したファンの姿が見える。思い返せば、昨冬のバンクーバー五輪の女子フィギュア、あの時キム・ヨナを少しでも褒める書き込みがあると、一部の(一部であると信じたいが)狂信的な浅田真央ネットファン達による徹底的な攻撃があり、悍ましいものであった。私はキム・ヨナと浅田真央による戦いは近年稀に見る好勝負であり、あの二日間、二人だけに現れたオーラというか、会場全体の緊張感はTV画面越しにでも感じられた。勝敗を分けたのは、多くの狂信的なネット上の浅田真央ファンが指摘するような審判の買収とかそんなものではなく、二人の精神力の差だったと私は強く思っている。神の配剤だろうか、二人は全く同じ条件を与えられた。ライバルがほぼ完璧な演技をした後に滑らなければならなかったのだ。キム・ヨナはそのプレッシャーに見事に打ち勝ち完璧な演技でSPを終え、浅田真央はプレッシャーに完全に負け見る方が痛々しく感じるくらいボロボロな演技でフリーを終えた。そう、勝敗は明白だったのだ。畑違いだけど、サッカーJ1ガンバ大阪の西野監督も、「プロとしてキム・ヨナの精神力を見習いたい。」と遠征移動中に述べたという。同様な理由でキム・ヨナを賞賛した元一流のアスリートや国会議員のブログが、狂信的なネット上の浅田真央ファンによる攻撃で炎上した。これらを報道等で知った時、私の背筋は凍りついた。いやはや、この国には言論の自由はないのかと。もちろん、プロスポーツファンであれば、贔屓のチーム、選手はある。しかし、卓越したスキルや優れた戦術に対しては贔屓を超えて堪能し、賞賛したいものだ。それが成熟したファンの姿ではないだろうか。

そういった意味で、#daihyoタグにアジア杯についてしばしば書きこんでくれるサッカー・ファン達に対して私は成熟度を感じ、さらに日本人も捨てた者じゃないなと思うのである。

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