約20年ぶりに、この本を読んだ。前回は二十代半ばに講談社文庫を買って読んだ。当時はまだ欧州への渡航経験は全く無かった。今回は世田谷図書館の保存庫に格納されていた単行本を借りて読んだ。昭和57年初版で、貸出の記録は、89-2-3に始まり、98-6-5が最後で、貸出回数は15回。現在の私は欧州への渡航経験は5回を越え、この物語の主な舞台であるポルトガル、スペイン、イタリアには、それぞれ2-3回訪問している。この小説は、1582年(天正10年)にイエズズ会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の画策で、九州のキリシタン大名の名代として、ローマに派遣された4名の少年使節 天正遣欧使節団の行程を時系列に、従者のコンスタンチノ・ドラードの手記という形で追った物語である。長崎をたったのが1582年2月、マカオ、マラッカ、コチン、ゴア、喜望峰、サンタ・ヘレナ島を経て、約二年半後の1584年の8月にようやくポルトガルのリスボンに到着した。リスボンからは陸路を東に進み、エヴォラ、トレドを経てマドリードには、同年11月に到着し、大歓迎を受けた。その後、陸路を更に東に進み、地中間沿岸のアリカンテまで行き、そこから船でイタリアのトスカーナ公国のリヴォルノ(ピサの近く)に渡り、フィレンツェなどを経てローマに着いたのが、離日してから約3年後の1585年の3月であった。当時のローマ教皇グレゴリオ十三世に謁見し、念願どおり教皇の御足に接吻できた使節4名であったが、その教皇が80歳過ぎの高齢であったこともあり、三週間もしないうちに死亡してしまった。新教皇にはシスト5世が選出されたが、彼は少年使節を最優遇し、自身の戴冠式には、少年使節らをローマ元老院議員、フランス大使、ベネチア大使らと同列に着席させ、聖油を塗って祝福された教皇の手を水で灌ぐという隣席者のうち最も身分の高い者に与えられる役割を少年使節の一人伊東マンショに担わした。更に少年使節全員はローマ元老院から4人だけでなく半永久的に彼らの子孫までにも名誉ローマ市民権を与えた。このような国賓級扱いは、ローマだけでなく、少年使節が訪問した欧州内の全ての場所で、例外なく受けた。もし、これらが著者三浦哲郎の完全なフィクションではなく、史実(残存している記録)に基づいたことであるなら、この少年使節を企画した巡察師のヴァリニャーノは、そうとうの曲者といわざるえない。少年使節は日本の国王の血を引く高貴な少年として、当時のポルトガル、スペイン、イタリアでは信じられていたようだが、とんでもない。そもそも4人の少年使節は九州地方の戦国キリシタン大名、大友、有馬、大村の遠縁にあたるものでしかない。また、こえらのキリシタン大名がローマ教皇にあてた親書もヴァリニャーノらによる創作であるとも言われている。教皇、国王、貴族から一般大衆までを完全に騙しとおしたわけである。読前は天正遣欧使節は純真無垢な巡礼だと思っていた私は、かなり興ざめしてしまった。所詮は一人の野心家が日本を植民地化するための、人的、金銭的支援を南欧列強国から得るために仕組んだ、大芝居だったと。著者は、この疑いを、後に4人の使節の中で唯一棄教した千々国ミゲルが、復路のマカオで、コンスタンチノ・ドラードに告白する形で、提示している。ローマの後、イタリア各地で大歓迎を受け、イタリア最終滞在地のサボイア公国のジェノバ港から船に乗りバルセロナに着いたのが1585年8月16日。復路もマドリード、エヴォラに立ち寄り、同年12月に約一年半ぶりにリスボンへに帰還した。当時は帆船による航行なので、季節風が吹くまで出奔はできない。従って、帰国船がリスボンから出航できたのは翌年1586年4月8日であった。帰路は往路と変らぬぐらい困難を極めた。ソファラの州という浅瀬に入り込み、身動きが取れなくなったり、また寄港したモザンビケでは、サン・ロレンゾ号という難破した別の帆船の遭難者がたくさん詰めており、結局、半ば彼らに乗っ取られる形で、天正遣欧使節の乗っていたサン・フェリッペ号はリスボアに向けて出航してしまい、少年使節はモザンビケの港で、宛もなくインドのゴア行きの船を待つ破目になった。これらの苦難を乗り越え、ようやくマカオに到着したのは1588年の8月11日であった。ところがここで最悪のニュースが待っていた。天下を取った豊臣秀吉が前年の6月に事実上キリスト教を禁じる「バテレン追放令」を出していたのだ。これにより、日本に行くポルトガル籍船が事実上なくなり、マカオで足止めをくってしまった。こうした最中でも策士のヴァリニャーノ巡察師は、自らをインド副王の使節に仕立てることで秀吉への謁見を企てていた。約一年十ヵ月後ようやく帰国船の手配が着き、マカオを出航し、インド副王使節に衣替えした天正遣欧使節は、1590年7月21日に長崎に到着した。なんと約9年ぶりの帰国であった。帰国後、ヴァリニャーノ巡察師と遣欧少年使節の面々はインド副王の使節としてなんとか秀吉に謁見は出来たものの、結局、秀吉にバテレン追放令を撤回させることは出来なかった。百戦錬磨の秀吉は、ヴァリニャーノ達が偽者の使節であることは、とっくに見抜いていたのだと思う。
さて、この小説であるが、残念ながら現在絶版になっている。理由は明白で、つまらないからである(日本文学大賞受賞作品をこのような評価を下すのは大胆あるが)。三浦哲郎は私の好きな作家の一人であるが、この作品に限っては、だらだらと行程を辿っているだけで間延びしており、感情移入がしにくい、退屈な作品であった。題材が卓越しているだけに、小説がこのような形になったことは残念である。おそらく彼は膨大な史料の中で針路を見失しなったのであろう。誰が書けばよかったのか? 司馬遼太郎か吉村昭かな。いや、このスケールであれば、井上靖しかいない。でも三人とも故人だ。三浦哲郎の歴史小説に関して、彼の故郷である南部藩を題材にしたものは優れていると思う。天明の大飢饉の時の人食いを題材にした『おろおろ草紙』は素晴らしかった。
少年讃歌 (文春文庫)
おろおろ草紙 (講談社文芸文庫)
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